上映会随想記

 
 
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『土徳−焼跡地に生かされて』2003年上映会随想記

 2003年12月7日をもって今年予定していた『土徳−焼跡地に生かされて』上映活動は、すべて終了した。劇場公開を中心とした今年の上映活動は、私自身初めての経験で、またこの活動をきっかけに多くの方々とめぐり合えたことは、本当に貴重な一年だった。ここに映画が、完成した春からの今日までの上映活動に関する動きかいつまんで記すことにした。

●2003年3月〜4月 『土徳−焼跡地に生かされて』完成!
 昨年の8月頃からたった一人で半年近く自宅のパソコンでチマチマと粗編集を行なっていた『土徳』。3月、2時間を越える長さにしてスタジオに持っていった。
 スタジオの技術者の方は、まさにこの作品を一番最初に鑑賞するお客さんなのである。
 開口一番「長い」「意味がわからない」。
 やはり作品というのは、人に見せるものであることを痛感した。
 当初、作品の最終仕上げとなるスタジオ作業は、本編集4日MA録音一週間をみていた。
 しかし改編につぐ改編でほぼ一ヶ月近くかかってしまった。
 この間、イメージフォーラム時代の恩師・金井勝氏、鈴木志朗康氏、民映研時代の恩師・森川時久氏に作品を観ていただきアドバイスをいただく。お三方の意見を聞き、かなり考えさせられた。私が日本列島の様々な地域を映像記録する民映研に14年間在職し、習得したものは、私自身いわば異邦人の立場で製作していたように思う。しかしそれとは違い、今回挑む作品は、本当に私個人が、製作する「作品」であり、「私」「家族」「ふるさと」を語る「作家」であることを意識しならないことを自覚した。それが粗編集の段階では、明確に表れていなかったのである。
 初めて書く個人的内容のナレーション台本を何度も書き直し、初めて入るアナブースで何度も吹きなおし。それらの欠陥を録音技術の戸部政明氏は、恐ろしいほどの粘りで叱咤激励し続け、私と彼との真剣勝負でもあった。本当に気の遠くなるような期間だった。

 完成後、この作品どう公開していけばよいのだろうと路頭に迷う。半年以上も、無職で、この作品の編集に費やしてきたのだ。ダメもとでいいからとにかく劇場にかけあってみようと思い始める。民映研時代、ドキュメンタリー製作の習得はしてきたものの、劇場公開なんてまったく未経験である。ビデオプロジェクターのある劇場・シネマ下北沢に、問い合わせをしてみる。とにかく観てみますからとの返事で、ビデオテープを発送した。

●2003年4月27日 東京 出発の会 初試写会
 初めて一般へのお披露目。民映研時代の私の友人・李章根氏が、定期的に行なっている「出発の会」でぜひ『土徳』を上映させてくれといわれ、これが本邦初公開となった。出発の会は、毎月定期的に渋谷区の松原幼稚園で開催され、とにかく老若男女こだわりなく集まり、いろんなテーマを設けて一食交えながら語り合おうではないかというサロンのような集まりだ。映画やビデオの上映などもこれまでやられ、なかなか質のいいビデオプロジェクターでの上映だった。民映研時代の知人や友人、小学校時代の同級生など私の関係者が、半分ぐらいと出発の会の常連さん半分で30名ぐらいの方々が、きてくださった。上映後の会食でも割かし好印象な意見が多かったのでホッとした。

●2003年4月29日 新潟県長岡市 長岡中央図書館・映画鑑賞会
 私のイメージ・フォーラム時代の友人・野上純嗣氏に、『土徳』完成の旨を伝えると、急遽試写会を開催していただくことになった。野上氏は、長岡市民映画館をつくる会のメンバーであり、もし試写会が、好評なら今年の第8回長岡アジア映画祭に招待するよとまでいってくれた。非常にありがたいことである。さらに野上氏は、せっかく試写会をするのだからといって、長岡中央図書館で定期的に行なっている映画鑑賞会の番組にまで設定していただいたのである。あまりにも事が、急展開したので恐縮してしまった。上映会には、『阿賀に生きる』のカメラマン・小林茂氏、民映研時代の先輩までかけつけてくれた。「すごくてんこ盛りでおもしろかった」「ちょっと長すぎるよ」などスタッフからさまざまな意見が、飛び交う。長岡市民映画館をつくる会は、13年前、長岡市中心部の映画館が、一挙になくなったのをきっかけに市民による開かれた映画館作りをめざし発足されたボランティア組織である。真剣に映画を愛する人たちによって運営されているだけに、厳しい意見もあった。映画祭招待の是非は、おって連絡するということで長岡を後にした。