上映会随想記

 
 
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『土徳−焼跡地に生かされて』2003年上映会随想記

●2003年8月2日 東京 シネマ下北沢 モニングショウ、レイトショウ
 東京では、公開が始まっても新聞などメディアにあまり扱ってもらえなかった。それでも10人近くのお客さんに来ていただいた。夜、特別イベントとして佐藤忠男さんに講演をしていただいた。
 佐藤氏の話は、日本映画学校の作品「ファザーレス 〜父なき時代」「home」に言及し、パーソナルドキュメンタリーを制作する価値を話された。家庭環境とういう日常的な空間にカメラを持ち込むことで、被写体は、非日常となり、カメラの前で意を正す。そうすると日頃会話しない内容まで、被写体が語ってくれ、そこに親子や兄弟の絆が写し出されるという意味合いのことを講演してくださった。中でも意外だったのは、佐藤氏が、「広島というのは、地縁や血縁にこだわる作家が多いなあ。新藤兼人(劇映画監督兼脚本家)や川本昭人(個人映画作家)なんかそうだし。」といわれたことだ。なるほどそうかなあ。今度、先輩の広島出身映画作家たちの作品を意識して観てみようと思う。

●2003年8月3日、東京 シネマ下北沢 
 次の日から、天候が悪化している台風がきているのだ。客足が、どんどん下降気味だ。
 3日、日曜日の夜は、とうとう誰も来ず休映。興行の厳しさを思い知った。

●2003年8月5日、東京 シネマ下北沢 
 5日、東京新聞朝刊に『土徳』掲載記事!お客さんが増えた!

●2003年8月6日 夕方 東京 シネマ下北沢
 原爆の日、朝日新聞の夕刊にも掲載された。しかしまだ不安だった。なんとかアピールをと考えに考えたあげく、チンドン屋さんを思いついた!

 『土徳』にチンドン屋というと不謹慎なように思えるが、私のような暗めの人間が、『土徳』のチラシをくばっても誰も相手にされず、平和運動や宗教の勧誘に間違えられるのがせいぜいである。本来、チンドン屋さんは、映画が、サイレントからトーキーへ切り替わるころ、弁士さんが失業し転職することから始まったといわれ、昔は、映画の宣伝のため劇場の前で口上を述べることも多くあったそうだ。さらにこじつけるのなら、中世では、こういった各地を徘徊する芸能者こそ、人を楽しませながら「弔い事」をしていたのである。
 知人の紹介で、快く引き受けてくれたチンドンのお二人・ワカメさん(中村ひろみさん)、佐藤俊憲さんが、下北沢駅周辺を徘徊する。私がカメラを回す。
 「ドキュメンタリー映画『土徳−焼跡地に生かされて』、本日は8月6日、広島に原爆が落されて58年がたちました。この原爆について広島について考えてみませんか?ドキュメンタリー映画『土徳−焼跡地に生かされて』、本日シネマ下北沢にて19:30より開始!講演もついています」
 町の人たちの視線をいっせいにあびる。急遽参加してくれた照明の菅野裕士氏とシネキタの竜崎氏が、チラシを配る。さすがチンドン屋さん効果、積極的にチラシをとりにくるお客さんまで出てきて400枚近くが一気になくなった。

●2003年8月6日 19:30 東京 シネマ下北沢 
 新聞の影響か?チンドン屋さんの影響か?あるいは本日のイベントの影響か?会場は、ほぼ満席となった。原爆の日にちなみ、この日は、世田谷被爆者の会・横川嘉範氏に講演をご依頼した。現在東京に在住の被爆者の方は、元々東京出身であったり、広島出身だが上京された方とか、様々な理由で東京に暮らされている。しかしそういう方々は、広島の被爆者以上に苦悩の日々を送られてきた。被爆者手帳の申請もできず闘病生活を送る人、差別と偏見による就職難や離婚。その苦悩はての自殺。かつて東京には、約15000人の被爆者がおられたそうだが、現在は約7000人。原爆の記憶は、風化の途をたどる一方である。横川氏も学生時代に被爆され、戦後は、東京で、入退院を繰り返し、今日に至っている。あるとき自分の生きる指針を5年周期として生きていこうと決意されたそうだ。5年たてば、死ぬのだから今のうちにやるべきことに向かって突き進む。そうやって一足触発の日常を、戦後58年を暮らされてきたのである。横川氏は、私の父と同い年だが、背が高く姿勢もよく矍鑠としている。私は、他地域の被爆者の実情については、横川氏からはじめて聞かされ、衝撃をうけた。お客さんも、夜の11時近くまで話されたのに、誰も席を立たず、横川氏の話を最後までじっくり聞いておられたようだ。

● 2003年8月8日  19:30 東京 シネマ下北沢
イベントの最終日。藤沢で新たに布教所を起こされた広島出身の浄土真宗本願寺派僧侶・稲葉尚範氏、 地元学をもとに地域に根ざした地域づくりを支援するローカルジャンクション 21・事務局の朝田くにこ氏、そして私の3人によるパネル・ディスカッションである。このまったく違う分野の人二人を迎え、地域における寺院の意味や、東京の地域性とはなにかということをテーマを論を展開していきたかったのだが、もうひとつそれぞれの話が、かみ合わなかった。やはり分野は、違えどどこかで接点をもたせないとおもしろい議論にはならないのだろう。お二方には、大変申し訳ないことをしたと思う。
実はこの日、映画監督の松林宗恵氏が、いらしていた。黒澤明の「三四郎」が製作された頃に東宝の撮影所に入り「社長シリーズ」や「連合艦隊」などの映画を製作された現在、84歳の大御所監督である。生まれが島根の浄土真宗のお寺であり、広島にも戦前、崇徳中学に在籍されていた関係で広島のお寺さんとも知り合いが多い。松林氏にとって広島は、第二の故郷なのだそうだ。だから『土徳』は、いたく感激してくださり、私に食事までごちそうしてくださった。このシンポジウムの日は、二度目のご来場なのであった。そのため私が緊張していたのはゆうまでもない。
この日は、東京駅の側のサウナに泊まった。

● 2003年8月9日 横川シネマ先行上映会  10:30
早朝の新幹線で広島入り。車中で、本川小学校の同級生より電話が入る。「すごい人がきよるで!」広島は、本格的な興行は9月からだが、特別に2日間朝一回だけ先行上映を開催したのである。横川シネマにつくと、 128席の場内は、ほぼ満席。半分以上が、年配の方である。顔なじみのおじいさんおばあさんもいらっしゃる。「坊ちゃんおめでとう」「ようやったね」真光寺の門徒さんや近所のひとたちだ。翌日も70人ぐらいの人がきていただいた。これほどの盛況をみていると土徳はまだまだ風化していないのかなとも思えてしまう。
広島での上映は、寺町ほか 50近くのお寺さんや門徒さんによって組織された「土徳の上映を応援する会」の力によるものが大きい。安芸門徒の結集力の深さや、私の父親の威徳によるものであろう。「応援する会」のみなさんには、本当感謝しなければならない。

● 2003年8月 11日〜15日  東京 シネマ下北沢
ある日のモーニングショウ、民映研時代にお世話になった古民家の建築家・高橋俊和氏、元チンドン屋の経験もある小野智子氏が、たまたま同じ日にきてくれた。上映後、食事でもしようと彼らを誘っていたら、劇場のロビーで、お客さんのおばあさんに声をかけられた。
「私、昨日の新聞でみたの。あなたのお爺さんが私の先生だったのよ!」現在 85 歳の荒木茂子さんは、興奮して話し始めた。荒木さんは、なんと私の祖父・青原慶哉の日出高校時代の教え子であったというのだ。以前私は、祖父が東京帝国大学を卒業後、広島へ帰る前、目黒の日出高校で教鞭についていたと聞いていた。実は、「土徳」を製作中、この時代の祖父について調べたのだが、昭和初期のことなので、まったく手がかりをつかめず、映画には、ふれることができなかった。その手がかりを知る方が、この東京の映画館に来られたのだ。荒木さんは、新聞で「土徳」の掲載記事を読み、広島の「青原」という住職の物語の映画と知り、ひょっとしたらと思い、劇場まで来られたのである。なんと不思議なことであろう。私は、言葉にならなかった。
荒木さんは、劇場のロビーで別番組の上映が始まろうというのに 30 分近く話された。同席していた食事の約束を待っていた高橋氏と小野氏も珍しそうに話に加わってくれた。なにかこれが土徳なのかなと思わせる日であった。
以後、下北沢は、後半一週間は、毎回ほぼ全席の半分以上の数のお客さんに来ていただき無事終了した。

最期にこの下北沢の上映期間中ノンフィクション作家の枝川公一氏が、自らのサイトで賛辞をくださった。
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