上映会随想記

 
 
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『土徳−焼跡地に生かされて』2003年上映会随想記

●2003年9月6日 横川シネマロードショウ開始
いよいよ本格的な広島公開開始!横川シネマでは、1日4回上映してくれた。初回から横川商店街からとぼとぼと、たくさんのおじいさんおばあさんが、集まってくる。各回が始まる前から横シネのロビーは、ほとんど老境の人たちによって埋め尽くされ、広島弁丸出しの会話が飛び交う。横シネは、シネマ下北沢同様ミニシアター系の映画館である。こうゆう客層が、しかも多人数くることは、横シネ史上始まって以来に違いない。各回ごとに舞台挨拶をするたびに、若いお客さんが、場違いな感じでつつましく座っておられる。不思議な興行風景である。

 

● 2003年9月7日 横川シネマ 地図作り大サミット〈僧侶編〉
広島でも上映期間中に行なうイベントを考えた。地元・広島ならではの企画、決して広島でないとできない企画をと、「地図作り大サミット」というイベントを思いついた。 映画 でも使用した米軍撮影による被爆前の広島空撮写真をスライドで写し、地元の住人に語ってもらいながら、在りし日の広島を浮き彫りにしようという趣向のシンポジウムである。
初日は、〈僧侶編〉と銘打ち、 光円寺の住職・飯田耀朗氏と、浄宝寺の住職・諏訪了我氏をお招きした。飯田さんは、 映画で寺町の坊さん小路の話をされた方である。そして諏訪さんの 浄宝寺 は、 現在平和公園になっている敷地内(中島町)にかつての寺があり、戦後強制立ち退きを余儀なくされた。司会進行は、今岡祐子氏。今岡さんは、映画で戦前の真光寺周辺地図を書いていただいた故・谷口フサコさんのお孫さんである。

飯田さんが、在りし日の寺町周辺を語る。寺町の北西には、大きな貯木場があった。空撮写真では、北西部の護岸から川面が、大きく白くなっている。これは、堆積した砂だそうだ。広島の川は、現在、ヘドロ状の黒い泥であるが、かつて、きめの細かい美しい白い砂が、いたるところにあったのだ。飯田さんも夏は、よく泳いだものだという。また、戦時下は、お寺の本堂には、 4 、 50 人の兵士が、宿泊していたという。軍事都市・広島は、出征兵士が、南方や大陸へ向け出発する最後の地である。市域のお寺や大きな部屋を持つ一般民家は、軍に部屋を提供していたのだそうだ。少年だった飯田さんに兵隊さんがいった「わたしは、広島にきて初めて海をみたよ」山間地からきた兵隊さんだった。

つづいて諏訪さんが語る。T字型の相生橋の真ん中の橋を渡ってたどりつく中島町は、大きな映画館や飲み屋などがある繁華街で、土手には大きな雁木があり、島嶼部(瀬戸内海)や山間地から生活物資が集積する大変賑やかな町だったという。入り組んだ小さな路地(小路)が、たくさんあって、諏訪さんはよく遊びまわったそうだ。記憶にある小路には、「両替小路」「幽霊小路」。非常に生活臭のある呼び名である。京都のように「コウジ」と読まず「ショウジ」と読むのである。
そのときお客さんから挙手があった。「映画の中で坊さん小路がかつてあったらしき場所を撮影されてましたけど、ちょっとずれてますよ」かつて、坊さん小路付近に暮らし、針工場をされていた  大野さんだった。私は作品中、山崎さんという方に取材をし、坊さん小路があったであろう場所を現在ガレージになっている所と勘違いして撮影し、イメージ映像として提示しまったのである。実際は、そこより二、三軒南側だと大野さんは、指摘された。赤面状態であった。いずれ機会あれば問題のカットは、差し替えておくことにした。自分の不注意が、完成した後もつきまとう。これがドキュメンタリーの醍醐味なのかもしれない。大野さんとはこの日初めてお会いした。

 

● 2003年9月11日 第8回長岡アジア映画祭
10日夜、新宿から夜行列車で発ち11日の早朝、長岡についた。『土徳』は、第8回長岡アジア映画祭の一番最初に上映をしていただくという光栄をいただいた。小林茂氏のセレクションによるドキュメンタリーのプログラム ―小林茂と観る、記録映画の1日― における5作品中の1本である。朝10時からの回だったのでお客さんは、そこそこであったが、どこで聞きつけたのか、真宗大谷派のお寺さんもいらした。映画祭のチラシに小林氏が、非常に励まされる紹介文を書いてくれている。
「 人はいつか自分の足元の原点を見すえないと一歩も進めないときが来るのであろうか。広島、原爆、寺の息子、病気の父。これらを手繰りよせるプロセスは苦しくも、幸せな発見がある。気管切開した父が一語一語息子に語る姿は美しい。青原監督の新しい旅立ちを体感する映画である。 」
『土徳』上映後、お客さんが徐々に増えてきた次が、『掘るまいか』(橋本信一監督)だからであろう。この作品は、長岡の隣村・山古志村の村人たちが、ツルハシ一本で隋道を16年かけて完成させたという苦難の歴史をひもとく記録映画である。再現ドラマなど取り入れ、非常に素晴らしい作品だった。終了後映画に登場された地元の方々のシンポジウムもあった。やはりこういう映画は、地元こそ上映して大きな価値があるのであろう。
続いて 『 イラン式離婚狂想曲』『ミニ・ジャパンの子供たち』『夜明け前の子供たち』と夜まで続き最後に小林氏が、現在製作中の『私の季節』のラッシュフィルムが上映された。琵琶湖にある重症児の施設を撮影した非常に美しいフィルムだった。『夜明け前の子供たち』の40年後を追ったものだ。完成を期待したい。
恥ずかしい話であるが、私は、こういった映画祭に出品するのはもちろん、参加することすら初めてであった。ドキュメンタリーを一日で5本まとめて見る機会は初めてのことで、大変感動し、大きな刺激になったと思う。これを主催し持続しているのが、一般長岡市民であるから、本当にすごいことである。以後、15日まで続くのであるが、残念ながら、私は1日のみの参加で、名残惜しく長岡を後にした。

 

● 2003年9月14日 横川シネマ 地図作り大サミット〈庶民編〉
地図作り大サミットの二回目は、〈庶民編〉と銘打って、今度は一般の町の人たちによるシンポジウムとなった。パネラーは、戦前から西区横川町で生まれ育った 佐々木稔氏と中区西平塚町 で生まれ育った 山岡ミチコ氏、そして司会進行は、南安佐区・光明寺の住職であり、中国放送で朝のラジオ番組のパーソナリティをもこなす遠藤治宣氏と私の4名である。

横川シネマのある横川町は、本流大田川が、デルタ・三角州を形成する川の分岐点に位置する町である。町の真ん中を旧山陰街道が南北に貫き、南下すると寺町になる。商店が軒をつらね、北部にJR横川駅があり山陽本線と可部線が走る。佐々木さんは、横川で酢製造業を営んでおられた。社名は、オタフク酢。お好み焼ソースで有名なオタフクソースの前身である。佐々木さんが、在りし日の横川について語る。「昔はね、種苗屋さんが、街道沿いにずっと並んどったんですよ。」横川から北上するとほとんど農村ばかりになる山陰街道は、農村部と都心部をつなぐ重要な交通路であった。農家の人たちは、大八車に野菜を積み、都心部の「市」に出荷した。そして帰りに一般家庭から人糞を野菜と交換し、大八車に積み、横川の種苗屋さんで種や苗を購入して帰ったのだという。現在でも種苗屋さんは、数軒残っている。 最後に佐々木さんが仰った。
「私は、神・仏なんて信じないでいました。『土徳』をみて、またこの年になって、先祖のことを大事にして、地域同士は、本当につながりあっていかにゃあいけんと思いました。」

山岡さんの住む西平塚町の戦前の写真をみると夥しい数の長屋が、ひしめきあうように並んでいる。そして南側には、東西にぽっかりと開いた広い空間の道が連なる。現在の平和大通り(通称100m道路)。
山岡さんは、言う。
「この道は、建物疎開の跡です。私の家は、ちょうどそのぎりぎりの所にありました。これまで建物疎開は、住宅密集地が、空襲を受けたときに火災を防ぐための防火帯だといわれてきました。しかし実態は、昭和20年に沖縄が占領されて、戦況が悪化したため、戦闘機を飛ばすための滑走路を作るためだったようです。そのことは、広島市民にはまったく知らされていなかったのです。」 「私の近所には、在日朝鮮人の方々が、多くいらっしゃいました。長屋は、だいたい6畳1間、台所3畳といった間取りでそれらが6世帯ぐらいで一棟の長屋でした。よく隣のおばさんにキムチをいただいたりしたものです。差別的なことは、まったくない日常でした。」
山岡さんは、直接被爆を受け、いまでも病と闘いながら暮らしておられる。原爆のことは、戦後数十年語ることは、されてこなかった。しかし現在原爆語り部として、広島平和文化センター被爆証言者WFCの副理事をされている。 山岡さんがおっしゃった。
「私は、病気を背負いながら生きてきました。本当にいま若い人たちに命の尊さを伝えていかないとと思って一日一日を生きております。戦争は、絶対あってはなりません。」

● 2003年9月16日〜10月3日 横川シネマ
溝口さんより電話があった。上映期日を延長できないかと。次回予定していた作品が、調整できなくなったことと、今のお客さんの勢いでは、延長しても十分であろうとのこと。延長した最初の一週は、一日3回上映、最後の週は1日2回上映ということでロングランとなった。後半になるにしたがって若い人たちが、増えてきたようである。
横川シネマでの上映は、1949人の動員となった。ありがたいことであった。