上映会随想記

 
 
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『土徳−焼跡地に生かされて』2003年上映会随想記


●2003年11月15日、16日 愛知県名古屋市 シネマスコーレ 
日本各地で映画館の興行を続けていると各地の映画館によって広報のやり方などそれぞれ特色があっておもしろかった。名古屋のシネマスコーレは、映画監督・若松孝二氏がオーナーのミニシアターである。「スコーレ」は「学校」という意味らしい。東京の文芸座につとめた経験のある木全淳治氏が、支配人を務めて現場でスタッフとともに20年励んでおられる。『土徳』は、長岡アジア映画祭のつながりで、スタッフである棚橋香予氏が、いたく感激してくれ木全氏に推薦してくれ上映することになったのだ。。
上映の2ヶ月前、打ち合わせで訪ねると、いきなり木全氏と棚橋氏が、「これからチケット・チラシをお願いに行きます。青原さんのお知り合いも紹介していただき、いっしょに来てください。」そして昼食後、早々に車で3軒の学校やお寺を走りまわった。スコーレでは、お奨めしたい映画があると、いつも広報に協力してくれる学校がニ三軒あるらしい。また地元の中日新聞と朝日新聞の取材も受けた。何か地域に密着した広報活動で好感がもてた。
11月15日いよいよ上映初日 。会場の半分ぐらいがお客さんで埋まっていた。私の大学時代の友人、真光寺のゆかり人たち、そして民映研時代にお世話になった方々もこられた。
上映終了後、懇親会にも出席してくれた。私の人生でそれぞれ違う時代に縁があった人たちが一同に会したので、混在した同窓会のような感じだった。懇親会では、それぞれが、何の忌憚もなく感想を語ってくれた。名古屋という地は、広島をさらに大きくした地方都市である。みなさんの感想を聞いているうち、何か広島と共通した感覚で地元を見、『土徳』で提示している問題を敏感に感じ取ってくれているのではないかと思った。それは、いままさに日本中の家族・地域が崩壊しようとしていることからくる危機意識の表れなのだと思う。私が、『土徳』で追い求めようとしたテーマは、都市化されてしまった風景の中に基層文化というのは、果たして存在するのかということである。
このたび名古屋での上映でお世話になった一人、深谷勇治郎氏の活動の近況を聞いた。深谷氏は、「民映研の映画をみる会」の中心メンバーのお一人である。 55歳で勤め先を退職し、緑区の自宅で古本屋をしながら瑞浪の炭焼き職人に弟子入り。 10年以上炭焼き修行を追行し、緑区の緑地公園に自ら炭焼き窯を作るまでに至ったのである。そして深谷氏は、大正時代、緑区で起こった鳴海小作争議の劇化に挑もうとしている。ちょうど『土徳』の上映時期、劇の本番が間近に控えている矢先だった。
鳴海小作争議とは、1917(大正6)年に現在の緑区鳴海町と南区笠寺村の小作人らが小作料の減免を求めて地主らと争った争議。名古屋市緑区出身で、当時京都帝国大教授だった雉本朗造博士が地元の人達を応援したい一心から小作人側を支援し、法廷闘争に持ち込み和解した。当時ないがしろにされていた小作権を農民の手で勝ち取った歴史的意義のある争議を、今回、深谷氏は、劇と唄でわかりやすく伝えようという試みるのだという。
地元の都市住民が、都市化される以前の農村歴史物語を発掘し、芝居化して伝承していく。「地元発信」というのは、こういうことをいうのであろう。今後、私が追及していく指針のように思えた。
名古屋は舞台挨拶のため16日まで滞在し、夕方の一回のみの上映、11月19日まで5日間上映された。

●2003年11月29日、30日 愛媛県松山市 シネマルナティック
上映前に打ち合わせのため、松山に行った時、その道中なつかしさでいっぱいになった。行き帰りの電車や夜行バスでゆったりした瀬戸内海や、なだらかな讃岐平野の風景などが堪能できたからだ。広島への道中では、新幹線か夜行バスなので今ひとつこの風情は味わえない。またシネマルナッティックの支配人・橋本達也氏が、宿泊場所として道後温泉ちかくの格安宿を設えてくれた。この宿は、ホモ映画で有名な大木裕之氏の作品の撮影現場になった所だそうだ。非常に小旅行気分での松山滞在となった。
シネマルナティックは、 市内の繁華街のはずれ・河原町にある。この町のまさに川端(河原)に位置するビルの最上階に劇場がある。下のニつの階が、ライブハウスであるため、入り口壁面には、ライブのチラシやポスターがいたるところに張り巡らされ、一瞬ここが映画館なのかと疑ったほどである。エレーベーターで最上階まであがった。中に案内されると非常にこぎれいなホールで広く、シートもゆったりしている。かつて下ニ階分とも映画が上映され三つのホールを有していたそうだ。当時は「フォーラム松山」という名称だったそうだ。
1988年1月末、酒井正則さんとういう方の提唱により、「市民の映画館を建設する会」が結成され、市民の協力を市民の出資という形で呼びかけたところ、反響は大きく、多くの出資者の協力があり、 同年7月、フォーラム松山としてオープンした。アメリカ映画など、大手配給会社以外の埋もれた名作を徹底して上映するミニシアター館として、当時の松山としては、画期的な映画館だった。 ところが、1989年10月、酒井さんが、交通事故で突然他界された。その後、川上社長そして橋本支配人の体制で懸命に上映を続けたが、経営の閉塞状況は如何ともしがたく、1990年11月4日、ついに閉館となったという。 1992年 フォーラム松山閉館後も、橋本氏は、映画への情熱を持ち続数人の仲間と、レイトショーという形で自主上映活動を続けられ、 1994年10月1日、正式に常設映画館シネマルナティックとして新たにオープンした。 橋本さん個人が運営を一手に担い、数人の映画ファンのボランティアで支えられてる。
( 不器男のシネマページに詳細)
地域での興行の困難さとそれにもめげず努力されている映画ファンの情熱というものを感じる映画館であった。松山では、舞台挨拶のため2日間滞在し、上映は12月5日まで、一週間、朝一回のみの上映だった。愛媛県なので母の里・大三島万福寺が、広報協力してくださり、数十人の方に来ていただいた。ささやかではあったが、ここでも松山の近隣近在のお寺さんや門徒さんともいいご縁が生まれた。