上映会随想記

 
 
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『土徳−焼跡地に生かされて』2004年上映会随想記


●2004年2月4日 大阪津村別院僧侶研修会
私の龍谷大学時代の友人であり、大阪市住之江区・寶林寺の副住職である南部松見氏が、大阪のシネヌーボで『土徳』を観て、いたく感動してくれ言った。「これは、大阪のお寺さんに大々的に見せるべきだ。」
結果、浄土真宗本願寺派(西本願寺系)大阪教区の全お寺によびかけ、「基幹運動・僧侶研修会」の一環として上映したいという話にまで広がった。基幹運動とは、僧侶と門信徒が一体となって、真宗の教えの基本である差別のない御同朋・御同行社会(簡単にいえば平等社会)の実現をめざして、積極的に社会活動をしていこうという運動である。「僧侶と門信徒が一体となって」なのに「僧侶研修会」とはおかしな話だが。
これまでは、一般、門信徒、僧侶も何の隔てもない上映会であったので、今回、まさにお坊さんだけのための上映会なのである。いまだにお坊さんに対する反感が、心の片隅にほんの少し残ってなくもない私にとって、非常に複雑な気持ちで臨むことになった。しかも上映終了後30分間講演と質疑応答も頼まれますます緊張感が増した。
会場となった津村別院は、大阪市中央区本町の御堂筋沿いにあり、「北御堂」とも呼ばれ、南へ500m下ったところに真宗大谷派(東本願寺系)の「南御堂」がある。 この南北両御堂を通称・みどうさんという。本願寺は、戦国時代大阪城の地にそびえていた。織田信長と長期戦をくりひろげたあの有名な石山本願寺である。江戸幕府成立後、本願寺は、東西に別れ、京都の本山に対する別格寺院として現在の地に建立されたのである。
上映会当日、控え室で打ち合わせを終え、別院のホールに行って見ると、続々お客さんが集まっていた。100人ぐらいはおられたと思う。全員僧侶もしくは寺族と思ってみると、壮観な光景に見える。
上映が終った。私は、舞台にたった。

作品でもふれているが、私は、広島の浄土真宗のお寺に生まれ、得度(僧の資格)もしたにもかかわらず、お寺から逃げ、東京の民族文化映像研究所(民映研)で、日本の庶民の生活文化の映像記録に携わってきた人間である。その間、沖縄、南九州、越前、越中、越後、関東、東北、北海道と各地の農山漁村の取材を経験することができた。この民映研という所は、民俗学者・宮本常一氏の流れをくむ姫田忠義所長とその仲間たちによって創立され40年近く続いてきた研究所である。いわゆる民俗学の映像記録を基本としているので、お祭り、伝統工芸、焼畑などの農耕技術、伝統建築の記録ばかりである。その取材のしかたも撮影まえからコツコツと、土地の古老に綿密な聞き取り調査を行なう。例えばお祭りの撮影ならば、祭礼の準備から、練習、本番が終了するまで、土地の人によりそい、まんべんなく撮影をする。私は、 日本列島にくらす庶民が築き上げてきた、衣食住にまつわる生活文化の奥深さ、豊かさ、素晴らしさ、たくましさを目の当たりにする経験ができたのである。
そういう取材のなか 当然、地域の僧侶や神官という人たちとも接する機会も多い。失礼ではあるが、そういう役職の方ほど高飛車な態度で、型どおりの一般論をふりかざす方が多く、猟師、漁師、職人、農家の方たちのように身体の奥底からくる言葉を語る方が少ない。ひどい地域になると古くから伝わるお祭りの時期や、儀礼のディティールを独断で省略や変更してしまう僧侶や神官すらいる。
また特に私自身が、耳にタコができるぐらい聞かされてきたのが、「浄土真宗地帯は、民俗文化の不毛の地。ぺんぺん草すら生えない」という民俗学の定説である。
浄土真宗の開祖・親鸞は、「神祇不拝」という教義をとなえた。良時吉日をえらばず、天神地祇をあがめず、卜占祭祀をつとめず、衆生は、阿弥陀仏によってすでに救われているのであるから、阿弥陀仏以外を拝む必要はない「先祖」すら拝む必要はないという教えである。この「神祇不拝」の考え方は、室町期に活躍した蓮如が、さらに徹底化し、実践にとりこみ、江戸時代の寺壇制度によってほぼ真宗教団人の生活スタイルにまで確立したといってもよい。真宗以外の信仰を「異安心」とし、門徒の家にある神棚を撤去、それまで各地域で行なわれた祭事や通過儀礼も真宗流布のために喪失したものが、かなりあると思われる。
ところが、真宗の僧侶は「冠婚葬祭」といった「先祖崇拝」によるお布施によって経済的基盤を得ているのが事実であり、実際の教義とはまったく矛盾したところで歴史を営んできたのである。こうした経緯から、土着の生活習慣をフィールド調査してゆく「民俗学」が、真宗地帯を民俗不毛の地といいはなつのは、至極当然であろう。
以上のような背景の中から私は、『土徳−焼跡地に生かされて』を製作する動機が生まれたのである。安芸門徒といわれる 民衆によって支えられてきた広島の真宗寺院。果たしてそれは「民俗文化」なのか?「基層文化」なのか?あるいは、僧侶主導によって上から押さえつけられた文化なのか? 私は、町の人に我が家の古きをたずね、父においたちを問い、父のゆかりの人を訪ね、さらに祖父やその時代の家族を訪ねいった。結果的に私が行なった行為は、先人が培ったことを反芻し、顕彰する行為であり、「先祖崇拝」を映像で反復するような作品になってしまった。真宗的な「お念仏」の世界とは違うのではないかと自分では思っている。

以上のような意味のことを大阪のお寺さんの前で忌憚なく一気に話してしまった。
批判の声が来るかと思った。しかし誰も発言がなかった。ほとんど沈黙状態であった。
一人、お寺の奥さんであろうか、挙手された。
「今でもお寺に反発があるのですか?」
私は答えた。
「上映のたびに真宗のお寺さんの多大な協力をえて、多くの方に共感してくださっているわけですから、反発するわけにはいかないでしょう。ただ私は映像製作という業に携わってきましたから、今後も僧職にはつかないつもりです。これからは門徒民衆が築いてきた文化を、映像で記録し続けていきたいと思っています。これまで真宗の方々は、仏教の教えを伝える役割のみに費やしてきた歴史があり、それを支えてきた門徒民衆の営みを文化として捉えて提示してこなかったように思います。私も門徒さんのお布施で育てられてきましたので、今後可能な限り続けていきたいと思っています」
このような自由に話せる場を設けていただいた津村別院および南部氏に感謝する次第である。


●2004年2月6日  記録映画作家協会2月研究会 東京都代々木 
東京の代々木にある記録映画作家協会から上映依頼がきた。この協会は、フリー及び企業(岩波、新理研、日映、
日映科学、電通など)映像のプロの演出、脚本、助監督、編集、アニメーターの組織として1955年に発足し、当初、教育映画作家協会という名称だったそうだ。正会員には、戦後教育記録映画作家の草分け的大御所メンバーが揃っている。 ここで毎月新作を中心としたドキュメンタリー作品を1本上映し、作家を招いて論評しあう研究会を開いている。この研究会から上映を依頼されること自体、非常に光栄で恐れ多い気持ちだった。
会場となるのは、新宿から歩いて15分ぐらいの古しいビルの5階の事務所である。小さな部屋に事務机に12、3人が集まってくださり上映が始まった。みんな真剣にみてくださった。
終了後、会食しながら、感想をくださった。「何かいきなり他人の家に招かれてお茶でも出されながら、話を聞かされ最後までひきつけられてしまった。」「宗門寺請制度の崩壊だな。ちょっと編集があらい部分があって、90分ぐらいにまとまるとは思うけどいい作品だった。」

さすが年配の記録映画作家らしい、厳しくもあり相手を汲み取った意見が次から次へと飛び交う。特に光栄に思ったのは、TBSで映画フィルム時代から編集マンをされている方から、「お父さんの日記の引用の中でアビダルマ哲学の時空論がでてきたけど、あれは映画的な哲学だなあ」この詩的は非常にうれしかった。これまであの哲学を映画における時空論と重ね合わせて指摘されたのは、鈴木志郎康氏だけだった。もともと仏教の縁起思想や無常観というのは、映画の成り立たしめる構造と何か共通項があるように前々から思っていただけに、この指摘はとてもうれしい。 なにはともあれ刺激的な一日であった。

●2004年2月7日、8日 東京都八王子市高尾山 『山踏み』完成試写会
「山踏み」をいよいよ五反舎のメンバーに見せる時が、来た。7日から8日まで高尾山グリーンセンターという研修施設に泊り込みで、私の送別会と山での手入れ作業と上映会と濃いスケジュールだ。立て続けに日程が入り組んでいたので、さすがに初日の山仕事は、遠慮し夕方ぎりぎりまで編集をねばって完成させた。
現地に着くと、ちょうどみんながもちより作った豊かな手作り料理が出来上がったところだ。五反舎のメンバーは、ほぼ全員参加。また作品の主役でもある西淺川山林組合の大塚義宥さんにも来ていただいた。
上映が終わり、なにかみんな余韻をかみしめてくれたようだ。やはりまとめてよかったと思う。みんな苦労して2年かけて作った道作りの記録である。記録とは、自らが営んできた証でもあるのだと思う。
なんとか一般公開へむけてこれから努力していきたいものである。
                                                     参照:  野沢清子氏のHP
●2004年2月21日  東京から広島へ 引越し騒動記 
東京最後の日であった21日。朝10時のつもりが、9時から引越し業者が来て、まだ荷造りを残したまま搬出作業が始まった。3日かけて荷造りした荷物があっという間に運び出され、残った雑貨や家具類を「これどうしましょう?」「あれは?」などと質問ぜめに会い、「ああそれ置いておく」とか適当に答えたため、手提げ袋三つ分の雑貨と掃除機が残ってしまった。
掃除機は最後に部屋を掃除して業者さんが残してくれた資材に包んで、宅急便で送る段取りになっていたのだが、私が掃除をしていると、いつの間にやら、業者が資材を引き取っていたことに気づき愕然!
掃除機かかえて広島まで帰るのかよー!
そして掃除を終えてみると、ゴミが、日野市指定袋11個分。 不動産屋に問い合わせると、
「ゴミは、残ったらあなたが全部お持ち帰りください!」
えええー!ゴミ袋11個と、掃除機と、雑貨袋三個を広島まで持って帰るのかー!
時計を見ると4時半!立川の不動産屋に6時に鍵を返す約束。あわててケーキを買いに行き、隣の部屋を訪ねる。日ごろ挨拶しかしなかった隣の若奥さんに初めて長く話しをしたのが、ゴミの交渉だったとは!トホホ…
若奥さん快くゴミを引き受けてくださり、ホッとして立川へ向かっていると前方に宅急便屋さん!
「やったー!すみません掃除機を梱包して広島までおねげーします!」
「わかりました。7時に荷物を引き取りましょう」
この宅急便屋さんも日ごろは、無愛想なやつと思っていたのに、この日は天使のようにやさしかった。そして無事鍵を返し、日野駅に着き、念のためみどりの窓口に行くとなんとキャンセルになった当日の広島行き夜行バスのチケットが手に入ったのだ。「日野」の「土徳」を最後の日に感じた一日だった。
とりあえず、さらば東京よ!