安芸国人・聞き撮り日誌

2003年4月から2004年3月までは上映会随想記へ 
 
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安芸国人・聞き撮り日誌・4月


●2004年4月27日 民俗学者・神田三亀男さん
広島に暮らしてはや2ヶ月。私は、広島生まれながら、広島の市域および県下をそれほど歩き回ったことがなかった。東京暮らしの間、いつか広島一帯を歩き回って本格的な地域の映像記録の旅を実現したい思っていた。
広島県の地図を広げてみる。しげしげと見ると当たり前の話だが、安芸と備後二つの「クニ」をもつ広島県というのは、実に広大なエリアだなあとあらためて思う。
私の周りの人は、口々に言う。「青原さんが、広島の民俗を訪ねたいのなら神田三亀男先生にぜひお会いするとよい。山間地から島嶼部まで広島を最も歩いた人だ」
恥ずかしながら私は、84歳になるこの神田先生とうい方がいかに凄い人か、お会いするまでまったく知らなかった。
民俗学者・神田三亀男。大正11年広島県東城町に生まれ 。戦後、広島県庁農政部に39年間勤続。その半分は、普及方法専門技術員として、農村・農業の現場の問題解決に当たる。棚田ネットワーク中国幹事、 山陽女子短期大学講師。かの民俗学者・宮本常一氏とも親交が深かった。
 私の突然の電話にもかかわらず、神田先生は、お会いしましょうと気さくに応じてくださった。 山陽本線の「向洋」という駅の近くにある先生のお宅を訪ねた。私は、かつて民映研に在籍し、「土徳」を製作し、今後は、広島を拠点とし安芸門徒を文化としてみつめる映像記録を続けたいという気持ちを伝えると、先生は「それは素晴らしいことだ」と仰り、熱情的に語り始めた。
    
安芸門徒地帯というのは、宗教の教えもあって、命を大事にするから、とくに間引きということをしなかったんです。私も大分気をつけて調べましたけどね、間引きということを聞かんですな。
備後、岡山の方では明治の初年ぐらいまでありましたけえ。私の村の東城町の東城川には、赤子淵というのがあるんですけえ。赤子をボロへ包んで投げ込んだら、浮いてこんという、そういう淵がある。また赤子落としとか、カラスも行かんような深い谷じゃあゆうような谷があるんです。子供の頃怖かったですのお。 これが備後・岡山です。私のおばあさんからもよく聞きました。
ところが、大田川流域には一切ない。間引きゆうことはありゃあせんゆうてですなあ。ないですわ。それだけ人ゆうのは、よう殺さなんだんでしょうね。宗教の摂理でしょうね。できる子はみんな生んだわけですよ。仏さんが見よってじゃあいうようなことをゆうて。できる子はみんな流させんわけですよ。 それで、よけえ子供を育てるために食わせにゃあいけんですよね。食わせるために職業を与えたんです。小学校もろくに行かせず、すぐ職につかせる。石工、大工、屋根噴き職人、唐臼たて職人、漆かき職人。また安芸は土地がせまいですから、一軒あたりの農地が、三反百姓ですから、零細なんです。貧しい 、斜面が多い、大田川流域は、土地がない。急斜面地帯。 それなのに子供がようけえできるから、食わすことができん。それで石工などの職につけるわけです。戦後でも神通川の石垣作ったのは戸河内の石工ですけんね。岩国の錦帯橋の石垣をしたの、あれも戸河内の石工です。
 安芸の棚田が、りっぱな石垣なのは安芸門徒の石工のせいですが。備後の棚田は、石垣をなるべく作らんのです。それは田んぼの畦の草をね、牛に食わすため。泥畦なんです。石畦にしたら草が生えん。だから備後には、「三反の畦で牛が一匹飼える」ということわざがある。 安芸は、牛がおらんし、土地がせまいから石なんです。 それはたいしたもんですよ、安芸門徒は。生命を大事にする英知が生活の中に滲み出とるわけよ。棚田の石の積み方は、上部を小石にして植え付け面積を増やすんです。命を守るための米を一株でもよけいつくる、やっぱり宗教から来とる。誠実なんです。
で、明治まではそれでよかったが、今度は海外移民。海外へ捨てるわけ。対馬とかね。今でも対馬いったら広島の村があるんですけえ。そりゃあ真宗以外でも真言の沼隈とかも行っとるけど、それはきちっと村がしっかりしとった上で行くんじゃけえ。安芸はね、ピーピーで(貧困の状態で)行くんじゃから。戻ってこれりゃあせんわけ。そりゃあねえ哀れな話ですよ。職業について一生懸命生きていった人間の一代を聞いておりますよ。安芸の人はがんばっとるですよ。ただ御仏の力を信じて生きとるわけですよ。対馬へ二度行きましてね。出て行った人は、炭焼きなんぞをして暮らしておる。漁業はようしとらんですよの。


まあこの安芸門徒のね、どういうんか、そういう生活・民俗、これに果たした役割は大きいですよ。

 


 

   神田先生宛・宮本常一氏の手紙と原稿類

                         

  ●2004年4月29日 墓石職人・井上君人、芳子さん

私の実家・真光寺の近隣・寺町と十日市には、墓石屋さんが、数軒ある。墓石職人も当然寺院とともに長い歴史を歩んできた。「土徳」製作の時に、戦後、被爆し、倒壊した墓地は、どのよう形で整備され復興を遂げてきたのか、疑問に思っていた。おそらく戦後の墓地整理は想像を絶するほど大変だったように思えたからだ。何人か寺町のお寺さんなどに訪ねてみたが、当時の様子を詳しく知る石材屋さんで、ご存命の方はほとんどおられなかった。ところが、井上石材の井上君人さんは、現在89歳で、奥さんの芳子さんとともにまだお元気であることをお聞きし、すぐに訪ねた。

14の時に、姉婿の左官町(現本川町)の石材屋に弟子入りしました。広島の墓は、 広島型ゆうて、たいてい今も同じ形のを作るんです。花立に巻物がついとるやつ。あれ職人が嫌うんですよ、手間がいるから。昔はランポノミって刃が横にひろがっているノミを手でたたいてあけよったですよ。タガネでたたいて、焼いて自分でこさえよった(作った)もんです。今から考えたら気根のいる仕事じゃったですよ。愛媛県の大島から石材をもってきて、伊予石とも大島石とも呼びます。あと広島の墓は 庵治石っていうのが少しある。 庵治石は、香川県の牟礼町と庵治産出の石で、こっちは高価です。 30cm角で8万。伊予石は、安い。3万から1万。宇品でナカセの人が担いで船から馬車に積んで運びました。一斗馬車1台に長石(ナガイシ)の角材を5本積みました。長石ゆうて厚み五寸・15cm、幅が30cm長さが3mぐらいのを5本積んだんです。1本20貫(約74kg)。ナカセの人は二人で担いで船から運んで上げよったんですよ。一回の船で大体、馬車五台分ぐらいですよ。注文の多い時もありますけどね。
原爆の跡は、猫屋町の明教寺さんなんかやった。奉仕して歩いたもんですよの。上部の墓石は、爆風で飛ばされとったけど、骨は地中じゃけえ場所はそのままでもわかる。主(はかぬし)のない人や壊れてどうもないのは、一所に集めてた。 だんだん主がわかってから(墓を)つけたけえ。セメンでつけて。あの頃で1万 7000円ぐらい。 主の人がわかるようなるのに10年ぐらいかかったかのう。ただ名前が書いてあるのがありゃあくっつけといて。原爆でわからん人がたくさんありますけえねえ。

奥さんの芳子さんも軽快な口調で話に加わる。

うちらはね、昭和19年に結婚して、中広(広島市中広町・爆心地から700m)の家で被爆したんですよ。前の日にグラマンが来たのでお父さんが、今日は仕事を休もうゆうたからよかったんじゃねえ。私らのとこは焼けなんだ。家の下敷きになってなんとか外へ出たら火の海じゃったですけえね。みなやけど。近所のおばさんらがみな公園に出とられたり、子供が下敷きになったお父さんを引っ張り出したりしよるんですよ。ほんま哀れなかったですよ。それからお母さんを探しに行ったんです。山手へ行くと(遺体が)いっぱい並べてあったです。 お母さんを探すと、真っ黒い油塗ってもらって新聞紙で藁しで結わえてもろうて、こうような板戸へ乗せて家へ帰ったんですよ。でもその晩に死にました。7日の朝でした。もう何にも食べてんなかった。「寒い寒い」ゆうだけで。「あんたら喧嘩せんようにええがにやりんさいよ」というのが最期でした。
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君人 やっぱり爆風ゆうのは、通るとこと通らんとことある思う    んです。そうじゃなかったら死んどる思いますよ。即死    じゃろう思う。
芳子 わたしゃあ、川の水を飲んだんですよ。下痢は1 ,2ヶ月   続いたけど、あとはどうもないんですよ。 戦後1年ぐらい   仕事がなかったですね。八百屋をやったり魚屋さんやっ   たりいろいろです。そいで21年にこの十日市で石材屋を   再開したんです。

君人  ここらの人(十日市の高齢者)は、全部死んでしもうて、ビルばっかりで、いよいよ過疎地ですよね。
    ほんと、うちらぐらいでしょうよ。元気でおらしてもろうとるのは。
    そいでそれを感謝して生きさしてもろうとります。