安芸国人・聞き撮り日誌

2003年4月から2004年3月までは上映会随想記へ 
 
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安芸国人・聞き撮り日誌・5月第一章


●2004年5月2日〜4日 上映会随想記・メイシネマ祭’04 東京都江戸川区小岩

メイシネマ祭に「土徳」が上映された。連休の3日間ドキュメンタリー映画に酔いしれた。これまで名前は知ってはいたが、こんな素晴らしい映画祭とは思わなかった。メイシネマ祭
とは、小岩で燃料品店を経営されている藤崎和喜さんが、たった一人主催され、毎年5月の連休と秋にご自分で選んだドキュメンタリーばかりを特集上映している映画祭だ。すべて藤崎さんの自己負担で開催されているのだ。当初は、製作関係者数人だけがお客さんだったのにすでに、10年以上続けておられるという。
藤崎さんは、ひょうひょうと語る「いやあ、道楽ですから」
今回3日間で、15作品が上映された。各回ごとに30人〜70人ぐらいのお客さんはいたと思う。『ユンボギの日記』(大島渚監督) 『掘るまいか 手掘り中山隊道の記録』(橋本信一監督)『
都市はじめて物語』(原村政樹監督)『わたしの多摩川わたしのまち』
(四宮鉄男監督)などなど、 【思いは時を越えて】というテーマで集められた作品群は、町や村の変遷を「今」という視点から見つめた作品が多いように思えた。
特に『ぼくのいる街』(黒木和雄監督)は、東京大空襲の銀座を今の風景からタイムスリップしていく構成が、拙作『土徳』の視点と共感するものを感じた。
特に感銘を受けたのは、『こんばんは』(森康行監督)だった。
舞台は東京都墨田区立文花中学校の夜間学級。 そこには様々な事情で「教育」を受けられなかった人々が通う・義務教育を終えられずちゃんとした日本語を学びたい高齢者の人たち、在日朝鮮人、中国残留孤児の人たち、ひきこもりの若い人、 そしてアフガニスタンの難民の人たち、年齢・国籍の境界がまったくない混在した教室。この社会の、いや世界の縮図のようなクラスでの授業風景は、凄まじい。そこには、教師と生徒の隔たりすら感じさせない。生徒が教師から「学び」教師が生徒から
「学ぶ」。教育の理想郷のような感じがした。今の時代こういう場こそが必要なのだと思った。



『土徳』が上映された5月3日の晩、関係者やお客さんを囲んで懇親会があった。光栄にもその日に上映された『リストラとたたかう男』の主人公・松沢弘さんが隣だった。 フジ産経グループ記者であった松沢さんは、不当解雇をされ、巨大マスコミに燦然と立ち向かっていく。 フジテレビ・日枝会長の豪邸や株主総会に堂々と押しかけて抗議主張する姿はたくましい。大企業に属したこのない私は、その未知の世界に、ただただ目を見張るばかりでこの作品に見入ってしまった。しかし飲み会での松沢さんは、穏やかで気のよさそうなおじさんだった。最近結婚された奥さんが、広島出身で、拙作をみて大変なつかしんでくれたようだ。
他、初めてお会いする岩波映画の方などドキュメンタリーの大御所の大先輩がたと、席を共にした。みんな四宮鉄男さんのご紹介で「土徳」を観にきてくださったようだ。四宮さん、藤崎さんに本当に感謝するしだいである。


 

●2004年5月5日 荒木茂子さん 東京都目黒区・日出学園訪問記

東京を帰る前にどうしてもお会いしておきたい人がいた。昨年、シネマ下北沢の上映会で初めてお目にかかった荒木茂子さんである。(上映会随想記・8月11日参照)
私の祖父青原慶哉が、東京に暮らしていた不明の昭和初期時代を知る人である。
目黒駅で待っていると、ひょっこり荒木さんが現れた。
いっしょに歩きながら85歳とは思えない勢いで、話し始めた。私もすかさずカメラを回す。

日出学園は、すぐそこなんですよ。バスで一駅だから歩きましょう。私だって一駅ぐらい歩けますよ。あたしその学園を卒業したんですけどね。 (昭和初期)あたしが一年生ぐらいの時に青原先生、おやめになったんですよ。安芸女学校ですか、とにかく広島の学校に行くって。その後私、お宅の真光寺さんへ行ったことがあるんですよね。 夏休みにね。うちの母は報専坊(広島市寺町)で近いからって真光寺さんにいったんです。そしたらお出かけでお留守でした。

  慶哉は、東京帝国大学インド哲学科を卒業し、広島に帰ってから安芸高等女学校の校長に勤務し、その在職中に原爆で被爆死した。慶哉の広島時代での様子は、何人かの人にたずね『土徳』でも触れた。しかし東京時代の足跡はまったくといっていいほど知らなかったのである。
と、おもむろに荒木さんが冊子を取り出した。


「千代田区にある千代田女学園。西本願寺の寺立の学校。私ここの職員してたんだけど、ここの名簿にもお祖父さんの名前が書いてあるわよ。」



慶哉は東京帝国大学卒業後、東京で千代田女学園、日出学園と二つの学校で教鞭についていたようである。
荒木さんは軽快に歩きながら、とめどもなく語り続ける。

あたしは国文科を卒業して武蔵野女子学院に勤めたんですよ。あそこ爆弾ばっかし落ちちゃって、お隣が中島の飛行機の製作工場だったから、アメリカさんの爆弾が毎日落ちるんですよね。あるとき、あたし近くの防空壕の中に入ってて、ガーンと身体が飛び上がるほど動いたんですよ。
電信柱がみんな倒れててね、電信柱をくぐったり、またいだり、今頃そんなことを思うと想像もできないですけどね、そして武蔵野へ行って、あの頃兵隊が、武蔵野の建物を全部使ってて兵舎になってて、番兵みたいなの門の前で番してるんだ。 兵隊の番兵みたいな小屋が二つあってね、「学校はどうですか」って聞いたら、「中に入って様子をお聞きください」って言って兵隊は何もいわない。行ったら先生たちが、「今日の犠牲者です。四人即死した」先生死なないのに。 そいで生徒が 4人死んじゃって。壕の中で。武蔵野女子学院の校庭の壕で死んじゃったの。4人即死。そいで玄関とこに4人の死骸が、こう並べてある。見ちゃだめって先生に言われてるの。筵みたいな、毛布みたいなのがかけあってね。学校の門に提灯がぶらさげてあって、「見ちゃあだめですよ!」ってゆわれて。4人が死にあったですよ。即死。

日出学園に着いた。
窪地になっているかなり低い場所にある日出学園は、
今ではアイドル芸能人を輩出させるお嬢様学校として有名らしいが、
かつて真宗門徒の有志によって建てられた仏教系の学校であった。
昨年6月で百周年を迎えたそうだ。



  「この方は、広島からこられた方で、昔おじいさんが、ここで教頭  をされていたのよ。今日は、昔のこの学校の歴史が知りたくて
  ここへ来たの。連休だけど職員の方いらっしゃるかしら」
  「事務の方はおられますのでどうぞ」
守衛さんは、草創期の女学生だった荒木さんが来られたことにびっくりされていたが、快く案内してくれた。


事務の人に荒木さんがさらにたたみかける。
「この方は、去年、映画作って朝日新聞にも、東京新聞にも載ったえらい方なのよ。昔おじいさんが、ここで教頭をされていたんです。何かその時の古い時代の資料とかありませんか?

腰の曲がった老婆と、きたならしい格好をしたカメラを持った男というあまりにも不釣合いなコンビの登場に、事務の方は少々引き気味にいった。
「今日はちょっとお休みですからね。誰もいないんですよ」

  
     とんだアポなし取材になってしまった。
     東京時代の青原慶哉について
     もっと落ち着いて調べてみようと改めて思った。



 

青原を訪ねて  広島市安佐南区祇園町 青原地区
 

現在私は、安佐南区西原という所に暮らしている。広島市の西北部にあり、ここから南下すると主流・大田川が分岐してデルタを形成しいわゆる旧広島市内となり、北上すると徐々に山間地に入っていくという場所である。
この西原の西側・祇園町という所に武田山という山がある。実は、私の実家・真光寺(広島市中区十日市)は、この山にあったという伝承があるのだ。『土徳』に登場した仏護寺と十二坊(現・広島別院と寺町の一部の寺)もこの山の麓にあったという。
承久三
年(1221)、甲斐の武田信光が、安芸国の守護職を任じられ、武田山山頂に銀山城を構えた。武田氏は、毛利元就に滅ぼされる天文十一年(1542)までの実に322年間、安芸政治史に重要な足跡を残したという。


現在祇園4丁目というエリアになっているが、この武田山の谷筋の一角に、なんと「青原」という地名の集落がある。
広島でも数少ない「青原」姓の家も何軒かおられる。
 






武田山から連なっている谷戸地には、棚田や段畑が、美しく点在する。先だってお会いした神田三亀男先生からお聞きした石垣の棚田だ。
古くからセリの生産が盛んで「祇園のセリ」として有名なようだ。




私が、この「青原」を初めて訪ねたのは、昨年の9月。
マンションなど立ち並ぶ宅地化された街並みから少し歩けばこんなのどかな風景が残っていることに妙な感動を覚えた。
しかも私の姓と同じ青原という地名。真光寺の元のふるさとであること。
血が騒いだ。
これから、青原をこつこつ通いつめよう。
青原が青原を訪ね、青原の意味をさぐる。
土徳第二部は、へんな映画になりそうだ。

 

 

●2004年5月7日 歓喜寺の花祭り準備 広島市安佐南区祇園町 青原地区

青原地区では、毎年5月、歓喜寺というお寺で「花祭り」が行なわれていることを郷土資料などで知った。急いで、現地の人に 問い合わせてみると、今年は、7日に準備をし、8日に開催されるとのこと。即、撮影のお願いをした。

 朝8時、自転車で歓喜寺に向かった。
平野部に小さく盛り上がった丘の上に歓喜寺はある。
正面入り口には、鳥居があった。
歓喜寺は大年神社というお宮が共存する神仏習合のお寺なのだ。
境内左が、大年神社の祠で右が歓喜寺のお堂である。
 









すでに地区の男性メンバーで、境内の掃除が始められていた。 今年の当番である中野さんが、花摘みが始まっているというので、山の田んぼ跡地まで軽トラで連れていってもらった。










花摘みは、地区の女性たちの仕事で、それぞれが、山や畑などに手分けして、レンゲソウの花びら、スギの新芽、春菊の花びら、菖蒲の葉、ナンテンの実など、色とりどりの草花が集められる。
中野さんがいった。
レンゲソウは、稲刈が終ると田んぼに植え、すき返して肥料にしとったんです。今頃は、田んぼもへってレンゲがめっきり減りましたよ。」

境内に帰ると幟立てが始まった。幟立ては、男性の仕事である。
青原地区の総代長・合路昭之さんが語る。
ここはね武田光和の出城が、あったんじゃろうって、ゆわれとるんですよ。ほんで終戦までは、このお宮はね、ものすごい大きかったんよ。真ん中に大きな渡り廊下があってね。
わしらの子供の頃は、石段が百段ぐらいあったな。三菱と油谷(付近にある元軍需工場)を建てるときにね、ここの丘の頂上を削って埋めたんよ。三菱のこっちまで裾があったんよね。


近くに安神社というとこがあるんですが、そこに祇園社ゆうのがあったんよ。明治4年に政府が、神仏合体じゃだめじゃあゆうて、壊したんよ。壊して安神社になってね。ほいたらここらの人が、壊したらもったいないじゃないかゆうことで、ほいでここを歓喜寺としね、もってきたらしんですよ。仏像があるでしょう。あれが全部手が切れとるのはね、壊すときにね、明治政府が、カセイゆうことになってね、ほんで五体満足じゃあいけんゆうて、仏像の手を切った。











女性たちの手で花御堂つくりが進む。     

    










男性たちが釜で湯をわかし甘茶をつくる




アマチャヅル、カンゾ、ケイヒを決まった配合
で麻袋にいれる甘茶は二つの釜・小釜で1日3回大釜で4回焚かれる。












  
午前中にほぼ、準備は終わり、
   午後からは、地区の方が参詣に訪れ甘茶をいただきにこられた。19時頃まで続いた。

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