安芸国人・聞き撮り日誌

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安芸国人・聞き撮り日誌・6月第二章


●2004年6月26日 合路昭夫さんに聞く  広島市安佐南区祇園町 青原地区
 
中世には守護・武田氏の銀山城(かなやまじょう)がそびえていた武田山。
その谷筋の一角にある青原地区。
私は5月の花祭り以来、時々、青原地区の人たちを訪ねている。「青原」の成り立ち、そして「私」の先祖との関わりは?
青原地区の総代長・合路昭夫さんが奥さんいっしょに青原の歴史や生活について語ってくれた。


この辺の青原さん、青原という姓は、昔はなかったそうですよ。名字帯刀で姓をもろうた、だから青原さんに聞いたらね、青原は堀越(家)の出じゃゆうてよ。堀越は、武士じゃったんよ。青原地区に堀越さんは、一軒。名字帯刀になったでしょう。自分の好きなのをつけたんでしょうね。
で、 ここ、青原には庄屋がおらんかった。でも隣の北地区の方に青原ゆう姓の庄屋があったようなんよ。芸藩通史に書いてある。

かつて青原地区は、ほとんどが農家で、米を主として芹やイチゴ、イグサなどを生産していた。

昭夫 芹は北地区でも作りよるよ。
奥さん 青原地区から北向こうの谷は北地区、今度はこっちは山本、部落部落によって谷があってそれにそ    って部落が出来て、その部落によって尼池ができて、それによってお寺とか神社もその谷にそってで    きるんですよ。 だから芹は水がきれいな山すその人だけが作りよる。水が悪かったら芹自体が変な    臭いがするけえね。


昭夫 昔、この辺は雨になったらすぐ水につかりよったねえ。青原会館のとこまで、増水して、太田川から逆    流して鯉がきよったけえのう。小学校でも水になって休みになったけえね。
    昭30年代
、太田川放水路ができてからそんなことはないけど。
奥さん 田んぼだから捌け口がないのよね。山の上から大雨が降ったら水きよったよね。
青原  田んぼの水はどっから引いていたんですか。
昭夫  武田山の「憩いの森」の所に、池が四つある。あれは、相当古いですよ。いつ掘ったんかしらんが。明治時代に掘ったんが四番池じゃろうね。使役で掘ったんじゃあゆうて。一番池はずっと前じゃろう。昔の人はモッコ担いで、何日かかったんんか知らんがやったんじゃろうね。一年、二年じゃあ掘れんじゃろうね。



昭夫 武田山はね官林、国の持ち物。 国有林。
    昔、
兵隊さんが、原木を伐って、坑木をやるのにね、そいでそこへ(登山道の)道ができたんよ。
    そりゃあ兵隊さんじゃけえねえ、だーっとつけてしもうたん。出さんゆうたらすぐ引っ張られるけ    え、軍隊がだーっとやってしもうた。武田山あそこ伐ってね。
青原 共有林 はないんですか?
昭夫 大年山かのう。武田山の下の方にある。大年神社の持ち物よ。それは村の財産でね、今は、別にな    んもせんけど、昔はマツタケが生えよった。入札してね。一番多いんが、1万なんぼで落とすんよね。
奥さん 昔はね、マツタケの生える頃にね、入札がありよったんですよ。
      自分が思う値段をつけてそれで高い人が、そこへ行ってマツタケとれる権利。
昭夫  その金はどうしたんか知らんよ。
      その金は総代さんが飲んだんか、個人でポケット入れたんか知らん。


                         

 

●2004年6月26日 庄田等さんに聞く  広島市安佐南区祇園町 青原地区

昔の話なら庄田さんに聞いてみんさいと合路さんの奥さんがいわれた。


すぐ近くじゃけえといって、庄田さんの家を案内してくれた。
斜面にひしめき合うように立ち並ぶ家々。
歴史の古そうな石垣の路地を歩いて行った。




私の突然の訪問に庄田等さんは、少々面食らいながらも昔のくらしをゆっくりとした口調で語ってくれた。

庄田  せりはね、 9月から10月にかけて植えよったよね。収穫は10月の末頃から、1月2月にかけてよね。セリは専用にしとったんじゃないかね。 9月に植えたら10月の終りにはできるよね。出荷のときね、セリやなんかは、リヤカーで運んだ。広島市内の中央青果、水主町(かこまち)にあった。
十日市にもいったよ。仲買人がおるわけよ。
戦後は十日市には、行かんかった。やっぱり戦前よね。
戦前はリヤカーじゃなくて車力。 車力は重たいよ。
旧国道をまっすぐいって、右を折れよって行ったこともある。電車通りへいって、横川橋をいったこともある。寺町もとおりよったよ。
帰りに横川の小田種苗に行っ少し種を買った。種苗ゆうのは、青原ではしれとるからね。
西原地帯(祇園町の平野部)みたいね、玉葱を何反とか、人参が何反とかゆうようにやっとらんからね。種もしれたもんよ。西原は、昔は、人参もあったし、玉葱もあったし、白菜や大根もあったし。

こっちは面積は多いないが、井草とかね、イチゴとかセリよね。6月ころがイチゴ、夏が井草。米もかなり作った。
このあたりの水田ゆうのは一毛作じゃけえね。今ゆうように降ったらすぐ浸水するような田んぼじゃったからね。ほとんど二毛作は、少なかったよね。渇きののええ所なら二毛作もあったろうの。普通ここらのは一毛作。

青原  じゃあ井草なんかも十日市に。
庄田  井草はね、商人が買いにきよったよね。とりにきよったよね。ほんで一部はね、畳の織る機械をもってやりよったよね。納屋の片隅でね。ゴザにしたり、畳表作って商人が集めに来る。でもほとんどが、イグサのままでね、乾燥したイグサで売りよったね。
青原  やっぱり広島市内の人にですか。
庄田  いや祇園に扱う人がおったんじゃあなかったね。

  ●2004年6月29日 安神社宮司・牧原直行さん  広島市安佐南区祇園町

祇園町は、武田山の東部をめぐる沖積平野である。新国道54号線と旧国道という山陰・出雲へつながる道路が南北を貫き、大型トラックやバスが毎日激しく往来する。今は宅地造成されマンションや新興住宅が立ち並ぶ西山本、東山本、西原、東原、南下安、北下安などの町もかつては穏やかな農村地帯だったという。それでも旧国道には、街道の商家らしい木造民家が、数軒並んでいる。 この街道に沿ってゆくと祇園町で最も中心となる安神社がある。

安神社はですね、承寛十一年八月、平安時代の前期ですからね、今年で1135年目を迎えとる。もともとはこのお宮は、青原地区、今の祇園中学の銀山城、あそこにあったお宮なんです。わけでね、今の廿日市の桜尾城の城主・平数家、あれに責められて、当時たまたまここはお旅所で残っとってお神輿がおられてご神体は難を免れたということで、それから後、お旅所が本社になったんです。
明治2年までは、神仏混交。それまでは安芸国祇園社。廃仏毀釈が明治2年にありましてその時にお寺とお宮が別れにゃあいけん時に安神社という名前に変えたんですよ。ですから今安神社いいますが、この辺の人はオギオンさんオギオンサンという方が親しみがありますね。安神社いうよりか、オギオンさんゆうほうが住民の人はピンとこられますね。 祇園も昔、北下安村と南下安村という別れとって安の荘という呼び方もしとったようですね。
平安時代の頃は、この先は入り江のようになった海でしたからね。そこに表に常夜灯ゆうのが残っとるんですよ。それがやっぱり昔の船の出たり入ったりの目印になっとったようですね。こりゃあもう古くからの図面に残ってますね。

元々このお宮は武田家によって創建されたお宮ですからね。それから今の武田家が滅びて毛利が管理に入るようになった。ですからこのお宮も23本ほど平均樹齢三百年、毛利元就のお手植えの松があったんですよ。昼でも鬱蒼として陽が直接射すことはなかったんですね。全部それ今はありませんね、現物は。今は松は全然ないんですが、松くい虫と 19号台風で全滅になったんですがね。

原爆のときは、私は、祇園小学校の5年生ですよ。ちょうど落ちたのが 8:15でしょ。朝、防空頭巾を必ずつけてそれから中庭の掃除をね。B29は広島へ行くときはね高度1万mをキラキラしながら、音出して向こうへ行ったんですよ。で原爆落とすときは、向きを変えて広島へ戻ってきたんですね。それからちょっとしてピカっとして。
私らは今、コベルコ建機ゆうんですが、下祇園の駅の向こうの、あれ昔は油谷重機株式会社いよったですが、あそこに大きな火柱がたって爆弾が落ちたと私らはそう思うたんですね。原爆とは思わなんだですね。
ほいでいまのそういうようなことで家へ帰って、天井は吹きあっがったり窓はもちろんないですわ。すぐ支度して土手へ蚊帳をもって非難して。まあ当時、原爆が晴天でないと落とされんというのはまったくわからんでしょ。で夜も落とされるんじゃないかゆうことで、怖かったですよ。
ここらは爆心地から4.1kmなんでね、ちょうど。市内から比べれば建物はあるし、人も焼けどもしていないし、暑いことは暑いですがケロイドなるような火傷もない。

だからここは避難所になって、社務所もあそこも全部避難所ですよ。私ら家に寝られんから安川、今の緑道公園になっとるあれが昔はきれいな川でしたからね、あそこへ10日あまり蚊帳もってって野宿しとったですよ。こっちはもう火傷した人とか怪我の人とかずーっと入っとられたですからね。父親だけここへ残って、みんな逃げとれいうことで。相当長いこと落ち着くまでが、この中も落ちた当時は右往左往ですよ、全部が入りきれんからみな外で治療したりね。ですからこっち方へ向けて逃げる人とか、五日市廿日市方面へ行く人とか別れてこう、みな非難されたから。

  まあですが、今はねえこういうふうになって、昔は家もあまりなかったから、この辺でればはるか先が見通せるような、家の構成じゃったでしょ、今は全くね、逆にこの近くはマンションに囲まれたような状態ですからね。昔はほんと見通しがよかった。家がないからずっとはるか先まで見えよったですからね。これだけの住宅がこんでくるとはね。