安芸国人・聞き撮り日誌

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安芸国人・聞き撮り日誌・7月


●2004年7月4日 田休みの祭り  広島市安佐南区祇園町 青原地区
 

7月、青原地区に「田休み」の祭りがやってくる。
かつて、広大な田畑をゆうしていた青原地区では、田植えは6月末までかかったという。
「田休み」とは無事田植えが終ったことを感謝し、稲が実りますようにと五穀豊穣を願う祭りである。
「泥おとし」ともよばれた。


5月に花祭りが行なわれた歓喜寺。
その左隣の大年神社のお宮に総代長の合路さんと3人の当番の方々が、準備をはじめる。田休みは、仏事ではなく神事である。







お宮のまわりに幕が張られ、提灯がつけられお供え物が供えられる。





お宮の中から獅子頭二対が出された。
かなり古いものらしい。
雄獅子・雌獅子であろう。
古い昔はおそらく獅子をかぶって舞う行事もあったと想像される。


 

竹が立てられ注連縄が張られ





                

お宮の手前の敷地に穴が掘られそこから火をおこし
釜で湯が焚かれる。
大年神社のお祭りは、年4回行なわれるが、すべて湯立て神事だそうだ。





谷本正さんがお湯立てに使う笹の不要な枝をていねいにとって束ねていく。
 「 やっぱりこうようなもんはのう、見たり、
  自分らでこさえて(作って) みんにゃあ、

  初めてじゃったら、どうやってこさえるんかあゆうことよの。
  ただ竹を伐ってきても、初めての人じゃあのう、全然わかりま せんよのう。」

午後5時、田休みの祭りが始まった。
境内に青原地区役員が居並ぶ。
安神社の牧原宮司が お宮の前で祝詞が詠み、
玉串が各役員の手で次々に奉納され、
お湯立ての神事へと進む。





     釜の前の祭壇で祝詞を厳かに詠み






湯の中に塩と米をまき、
釜の周りを四方からていねいに御幣で祓う






御幣の柄で湯をかきまぜカルカンを入れる。
カルカンとは、藁縄を輪にして
幣串にした四本の竹をつけたものである。

そして笹束を湯にひたし、お宮と参列者に勢いよく祓う










最期に供物のお神酒とイリコ(乾物)をいただいて田休み・泥落としは終る。

解散する前、青原地区の総代長を10年勤めてこられた合路さんが役員の方々に話した。


「会社が大事か、総代が大事か、大事な方行きなさいゆうたら、そりゃあ会社が大事だと、そういうこと言われると困るのよ。ほいじゃけえ現役はやりたくないじゃろうけど。祭りの日にちはわかっとるんじゃけえね、その時は休暇をとってもろうて、出てもらわんにゃあ困るよね。わしは、これで総代長を退くけえ、新しい人を決めてくれんか。」


青原地区の祭りは、今でもほぼ旧暦にのっとって行なわれている。平日に行なわれる祭りも多くある。
祭りの役員は、農家の方もおられるが、ほとんどが会社員である。
伝統を継承し維持していくことの困難さがここでも浮上した。

 

●2004年7月24日 安神社夏季大祭  広島市安佐南区祇園町


おぎおんさんと親しまれた安神社、最大の祭り・夏季大祭がやってきた。
京都の祇園祭と同様、疫病退散を祈願するお祭りである。
かつては、7月末日に始まり1週間行なわれていた。今は簡略化され7月末日の土曜日と翌週の土日の3日間のみ行なわれている。



町じゅうにシメが張り巡らされ







夕方7時本殿で祭典が厳かにかに営まれる。








玉串が奉納されると子供神輿が出発した。











子供神輿は、交通規制もされていない車が激しく往来する旧国道を元気よく走っていった。
祇園町の北・古市との境界まで。








かつて夏祭りの初日から大人による神輿も出された。和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)の二基の神輿が町を練り歩いた。
特に荒御魂の神輿は、家にぶっつかったり、喧嘩したりとかなり荒々しく町を練り歩いたという。








それから神輿二基は、安神社より南へ約500mに位置する熊野神社に安置された。
1週間警護役に見守られながら、疫病退散を祈願したという。






この行事の名前を「下り居(おりい)祭」と呼んだ。
下り居祭の大人神輿は、1963年より担ぎ手がいなくなりトラックで運ぶという形を余儀なくされた。








しかし昨年2003年、担ぎ手が集まることになり
大人神輿は41年ぶりに復活をとげた。
下り居祭の1週間後に1日だけ熊野神社に安置する形ではあるが…。







今年も7月31日に、大人神輿が出る予定であったが、残念ながら、当日は台風で中止となった。







熊野神社が鎮座する地区はかつて「帆立(ほたて)」という地名で呼ばれていた。
この付近は、中世までは入り江であり、ここから帆を立て船が出入りしていたという。
そこに疫病退散を願って神輿が1週間安置される行事が残されているとは。
何か自然と人間の共生関係の中から生まれた奥深い行事のように思えた。

  ●2004年7月25日 新羅神社探訪  広島市安佐南区祇園町

武田山をめぐる各町・祇園町、西山本、東山本、西原、東原、長束には、中世の守護職・武田氏ゆかりの神社仏閣がおびただしく散在する。しかも創建が平安時代や鎌倉、室町時代のものが多い。
考えてみれば私が生まれ育った旧広島市であるデルタ地帯は、毛利氏支配以後の城下町から発展したものであり、浄土真宗一色であり、原爆による壊滅ありでというトリプルパンチで江戸時代以前の痕跡は皆無である。
それ以前、安芸国の中心であったこの地域に中世の世界が集中しているのは当然といえば当然であろう。
それにしても爆心地からたった4kmほどのこの地域にこれほどの古層が残っているのは、やはり驚きである。

1221年、承久の変で戦功をおさめた武田信光は、安芸の守護に任ぜられた。
後に武田信玄を輩出する武田氏は清和源氏の流れをくむ一族である。
源頼朝の四代前に義家という人がおり、その弟に義光という人がいた。
この義光の子孫こそが武田氏なのである。
義光の別名を新羅(しんら)三郎と呼んだ。

新羅三郎を祀る新羅神社を訪ねた。


新羅神社は、祇園町5丁目にある。
経済大学に向かう新興住宅地街を通り、武田山の裾の傾斜が始まるあたりに小さな森があった。
想像以上に小さかった。





勾配の急な階段は、石組みが非常に古そうである。
階段上の鳥居には、寄進者が、「武田○○」と刻んであった。
たまたま向かいの農作業小屋に老夫婦がおられた。
「こっちに来てみんさい」
  と神社の森の南脇に案内された。





小さな水場だった。
「昔はね、ここで食器洗ったり、出荷の時に野菜洗ったりしとったんよ。
ここらはね、田んぼばっかりで、高陽町の方まで見えよったんよ。」







「ほれ、みてみんさい。ザリガニがいっぱい。
毎年夏にねえ、休みになると孫らがザリガニ見に来るけえ、掃除しよるんよ。昔は当番で掃除しよった。」






「昔ここで戦争ゆうん、武田山であったらしいね。ここをずっと行かれたらね、西本さんゆうのがおってんじゃが、あの人が昼寝しとったら刀の音がしたゆうて言よられたから。夢に出たんですって。刀の音がして目が覚めたゆうて。まだ若い人ですよね。 」



21世紀になった今日、いまだに戦国時代の悪夢にうなされる西本さんという方にお会いしてみたいものである。
なにかとても豊かな気持ちになった一日だった。