安芸国人・聞き撮り日誌

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安芸国人・聞き撮り日誌・8月

広瀬小学校原爆死没者慰霊碑除幕式

●2004年7月12日   広島市中区寺町
 
私の実家のある十日市二丁目近くに広瀬小学校という学校がある。十日市二丁目は、ちょうど広瀬小の学区域外なので、私は別の小学校に通った。本当は広瀬小学校の方が歩いて2,3分という至近距離にもかかわらずである。
7月、 寺町に住む寺田さんが言った。
「今度、私ら同窓生が、広瀬小学校に原爆の慰霊碑を建てるんよ。あたしらももう年じゃけえ、青原さんに撮影してもうろうたらええ思うじゃが」
寺田さんは昔、私の幼馴染だった人のおかあさんで電気屋さんだった人だ。
なんでも、その慰霊碑は寺町の墓屋さんが現在製作中で、8月3日に完成し除幕式を開催するそうだ。



あわてて寺町の淋蒔(うずまき)石材にはせ参じた。





年配の人たちが、製作中の慰霊碑の前で打ち合わせをしていた。私が子供の頃どこかでお会いしたような覚えのあるような隣近所の人たちだ。みな終戦直後、広瀬小だった人たちだ。
「ああ真光寺の次男さんか。『土徳』みましたよ。」
と気さくに話をしてくれた。



寺田 「あれは去年の 9月にふれあい旅行の帰りの中でやろうという話が出て、この吉森さんとか内藤さん     とか、今村さんとか町内の古い方が早う作ろうやということになって。じゃまあ助成金申請をしてみよ
     うやということで9月にして、6月におりて、で募金もさせてもらって、でなんとか予算いっぱい内でよう
     やくできたんです。」
 吉森「近年、慰霊碑を作る学校はほとんどおらんですよ。 もうみな済んどる。
     戦後 50年の時にね、よけい(たくさん)作ったら しいんですよ。原爆におうた人が先は長うないんじ
     ゃけえ、作ってくれいやゆうて。まあ私らも一安心。ほっとするよ。」
  中野「そりゃあね会長さん一人がやったんじゃなしに、何
    回か会議を開いてまさに晩期功労に徹すべしでね、
    非常にみんなの意見を反映されて、だいたいみんな
    の意見が入るように今の言葉でいえば民主的にね、
    やっとられてね。」
  吉森「あそこの碑文を作るんもね、あれももうなん度か、
     ああせえこうせえ、意見が出ましてね、まとめるんが
     ね、大変じゃった。
 中野「それと碑文には、昔の町名が出ております。被爆当時の町名がね。今はもうなくなってとる町名もありますから、そういった町名も石に刻んでありますから。後
世のために参考になるだろうと思いますね。あらゆる面から知恵をしぼって入れてありますからね。」

帰り際に、寺田さんの奥さんがいった。
「私ら原爆のときはね、3年生から6年生まで疎開しとったんよ。集団疎開が 200人、縁故疎開が150人。で1、2年生が広島に残って、近くのお寺へ勉強に行ってたらしいんです。そんで疎開に行かなかった残りの3年生から6年生までが学校へ行ってて即死したのが37人。で15人先生がおられて7人が即死してあと8人が負傷ゆう記録が残っているんです。ほんでそれより多いかったんですけど先生は、集団疎開へついてゆかれたので。でも今は、その当時の先生がどなたもいらっしゃらなくて、その玉木先生だけなんですよ。」



玉木先生は、現在90歳代のご高齢だそうだ。
私はいつか玉木先生をご紹介くださいと言ってその場を後にした。
       
  



2004年8月3日広島市中区広瀬町


広瀬小学校原爆死没者慰霊碑除幕式の日。
暑い陽射し、真っ青な空、盛んにクマゼミが鳴きざわめく。
59年前のあの日のことがイメージされる。







募金者680数名によって完成した慰霊碑の幕がおろされた。







実行委員長、遺族代表、市長代理…。
広瀬小の原爆犠牲者の方々へむけ、痛切な弔いの言葉が語られてゆく。




吉堀実行委員長挨拶
「慰霊碑建立につきましては、旧広瀬学校区の地域のみなさまをはじめこの広瀬地域から遠くに離れてすんでおられる広瀬小学校卒業生のみなさま、また同窓生のみなさまにも、たくさんのご賛同、ご支援をいただきました。衷心によりあつく御礼申し上げます。
 この広瀬地区は爆心地より至近距離にあり、原子爆弾炸裂と同時に家屋は倒壊し一瞬のうちに焼け野原となりました。焼け野原の跡には、裸同然の死体がころがっていまた。10日ころから兵隊さんがでてきて、この死体処理にあたり、天満川の川岸・横川橋のたもとの川原でこの死体を集めて、氏名もわからないままガソリンをつけて焼いたということが、広島市公文書館の資料に載っております。
  59回目の原爆祈念日を前にして、広瀬小学校の校庭内に慰霊碑を建立することができました。これら犠牲者の方の御霊も安らかに眠っていただけるものと思っております。これからは、広瀬小学校の児童生徒が、この慰霊碑のもとで平和教育の一環としてこの慰霊碑を見守ってくれることを願っております。
再び戦争のない平和がいつまでも続くことを祈念して挨拶とさせていただきます。
         


 

朝顔灯篭の源流を求めて


灯篭は謎である。
かつては8月13日に火を灯し、墓前に立てたという。
この簡素な竹製の飾りが、先祖を供養するための送り火迎え火の祭具であることは明らかである。
この灯篭の習俗が、先祖崇拝を極力排除してきたいわれる浄土真宗、しかも安芸門徒だけに伝わっているのは何ゆえか?


以前、民俗学者・神田三亀男氏が言われた。
「朝顔灯篭(あさがおどうろう)とも呼ぶとこもありますよ。上に突き出ている紙がミミ、側についているのがフサ、細長いたれている数本の紙がソーメン。」
細部に名称があるのは初めて聞いた。しかもソーメンとは。
私の浅い取材経験でも、全国各地の盆行事でソーメンを供物にするところを多く見かけてきた。


●2004年8月15
日 
広島県豊田群瀬戸田町高根

神田氏に高根島(こうねじま)に古い盆行事が残っていると聞き、急遽旅立った。


三原港から高速艇で20分。
高根島は、生口島の北西に位置し、生口島とは橋で結ばれている。






面積5.57ku、人口670人(平成15.12.1現在)。
島民のほとんどがみかん農家である。
生口島は、安芸門徒だが、高根島は全て禅宗だそうだ。





中田久さんのお宅をたずねた。
なんでもお母さんが今年亡くなられ新盆を迎えられた家である。
すでに13日から、庭に精霊棚を組まれ、先祖の弔いをされていた。






          中田さんが気さくに説明してくださった。





「これは、精霊棚といいまして、13日の昼までに準備しとくんですね。






昼から団子をお供えして、夕方までには和尚さんが参ってくれるんです。ほいでお経あげてくれるんですがね。
  今年はうちらは新盆でしたから家の仏壇へも入って拝んでいただきましたけどね。





翌日もごはんを供えたり、そうめんを供えたりするんですけど。」







今回、中田家の精霊棚では、俵の蓋・サンダラボッチをお供物の下に、敷いていたが、通常は、蓮の葉を敷くという。
中田さんは、蓮の葉を敷いた精霊棚を祀る他の家を案内していただいた。







夕方、中田さんの奥さんが精霊棚を拝んだ後、
棚の四隅の竹笹と榊、を取り始めた。
サンダラボッチと竹笹と榊を一つにあわせ中に
3日間お供え続けた供物をすべて包む。



今年、新盆でおばあちゃんがおにぎりが好きじゃったんですよ。普通はごはんをお茶碗のようなものに入れてお供えするんですけど、私、わざわざこうしておにぎりを供えてあげた。






  この方のしきたり、とにかくお団子を供えてお迎えして、今朝またお団子をしてまた供えて、その間にごはんでも、おそうめんでも何でもね、その日にできたものをお供えするんですよ。




お団子の粉を売ってますし、白玉粉でもいいし、きなこまぶすかあんこまぶすか、昔はねえ、シバ餅したり、とにかくああいうお餅類のものをしてましたね。



 

そんなにお菓子でも、ようけ(たくさん)ない時代でしょう。
ほいじゃからシバ餅を作ったり、お団子たくさん作ったり、
とにかくお団子でお迎えしてお団子でまた送るゆうようにしてますね。




  生きとる人も食べるし、仏様へもお供えしてね。
 仏様を送るゆうことをしてましたね。






 

お盆だけは仏様も家へ帰ってきてもらって、家族と共に過ごすということですね。
 



      おばあちゃんがしておられた通りを、私らもずっと受け継いできてるんですね。

             


●付記
  「朝顔灯篭の源流を求めて」と題したのは、この高根島の精霊棚が朝顔灯篭の源流という意味ではない。
 私は安芸地方に伝わる真宗文化は、その周辺地域の全般の生活文化史から見つめなおすことから「源流」が見えてくるのではないかと思っている。禅宗の高根島・精霊棚と真宗の朝顔灯篭の酷似は、なにか瀬戸内海文化の伝播に関わるのではないかと思った。