安芸国人・聞き撮り日誌

2003年4月から2004年3月までは上映会随想記へ 
 
2004年 序文 4月 5月-1 5月-2 6月-1 6月-2 7月 8月−1 8月−2 9月-1 9月-2 10月
 

安芸国人・聞き撮り日誌・9月第二章

上映会随想記

●2004年9月14日 真宗大谷派小松教区2004年度公開講座  石川県小松市称名寺
 

3月金沢、6月城端と真宗が最も盛んな北陸での上映会が続く。小松の称名寺の上映会でも蓮如以来の「土着」といってもいいどっしりした真宗の風土が感じられた。以下上映後のアンケートから。

「地域の中で育てられるということはその地域に住んでいる人々に育てられるのでは。そうすると北陸も広島も同じように『土徳』というものが伝わっているのではないでしょうか。はっきりとこれとは言えませんが、この映画をみてなぜか涙が出てきました。まず強く両親を思いました。両親の中に土徳というものが見えてくるのが私の身近な土徳です。母親が真宗を私に伝えてくれました。」(52歳・女性)

「『土徳』という言葉の意味は?この映画の中で『地域のお育てに預かって』ということがあったが私のうえでも土徳、当地の土徳というものは、先祖伝来脈々と伝承されているもの、このことが最も大切なこととして相続してゆく『伝統』が土徳であると思っている。当地には『お講』があり、そのお講を通してこの在所に嫁に来てよかったと……自然に語れる。そのような生活の中から土徳を感じている」(71歳・男性)

「能登の生まれですが土徳という言葉を初めて聞きました。この映画を通じ土徳の意味を学んだように思いました。自分にとっては、土徳というのは、一人の人間の中にある記憶とか思いとか、その人だけの事実、雰囲気というか、そういうものかなと思いました。しかもそういうのは普段隠れているのだと思います。そういう一人一人のものが大きく合わさって、土徳の総体になっていくのではないかと思いました。私も寺の出身なのですが、映画をみて実家のことを思い出したり、門徒さんの顔を思い出しました。」(27歳・男性)

「私が生まれた以前から私の家は真宗信者です。おぢいちゃんのお勤めの声で目をさましナンナンサン、ナンナンサンと手を合わせ育ちました。北陸地方(小松)は蓮如様のお陰で御信仰の深い処に生まれたことを有難くお念仏の生活をさせていただけることを嬉ろこび此の地の土徳のご縁を頂いたことを感謝しております。」
(83歳・女性)



「北陸にも土徳はあると思います。一向門徒と呼ばれたご門徒の力強い信仰心は感じられるが、このまま放っておけばなくなると思います。土徳とは、人と人のふれ合いの中でつくられてきた歴史ではないでしょうか」(35歳・男性)

「北陸にも土徳はあります。昔の報恩講や念仏をモグモグ道を歩きながらも、となえるお年寄りがいなくなったと思っていましたが、自分が今その年寄りなのにと、いつもいつも外にばかり目がむいています。でもたしかに今の地域には、聞法させてもらえることが、たしかに『土徳』のたまものです。」(78歳・女性)

●9月16日 日本工学院専門学校特別講座(東京都大田区蒲田)

小松上映会が終り「木羽葺き民家」の取材で途中、新潟県松之山町に滞在した翌朝、東京へ向かった。

東京蒲田の日本工学院専門学校では特別講座として「土徳」が上映され、私の講義も依頼された。
放送・マルチメディア分野、エンタテインメント分野、IT・情報分野、工学分野、医療・環境分野。まさに最先端の学科が出揃った専門学校である。
龍谷大学仏教学科に民映研というどちらかといえば時代に逆行する履歴を歩んできた私には全く無縁の世界である。

蒲田駅を降りると工学院通りという通りがあることにまず驚かされ、オフィスビルのような巨大な校舎が14棟も林立する光景に圧倒される。
キャンパスに入ると、サッカーで遊ぶ生徒やギターを演奏する生徒、学園祭でも始まるのかと思ったが、どうやらこれが日常の風景のようだ。校舎の中では、茶髪にイヤリングをした生徒たちが、廊下を走り回ったり、地べたにそのままお尻をつけ座っている。「スクールウォーズ」さながらの世界である。いや「カフカの城」か「不思議の国のアリス」の世界に迷い込んだのだろうか。
私の頭の中に一抹の不安がよぎる。一体、この生徒たちに「土徳」を理解してもらえるのだろうか?
教室には、70名ばかしの生徒たちでびっしりうまっていた。
工学院の講師・佐藤博昭氏に紹介され挨拶をした。生徒たちは全員、放送関係など将来、映像の道へ進む人たちばかりである。10代後半から20代前半、本当に若い世代だ。これまでの「土徳」上映会でこの日が、最も低年齢層となった。
上映が始まった。私語をやめない生徒、携帯で話す生徒などが数人見受けられた。心配した通りだった。
上映終了後、どのような講義を展開しようかと迷ったが、私は半ばヤケクソ気味に思いのたけを語った。

私は高度経済成長にさしかかる時期に広島にうまれました。この映画は、父親が生きてきた私が知らない原爆以前の時代の広島を追いかけた映画です。
明治維新、旧暦から新暦の移行、戦争、高度経済成長、宅地造成、バブル、そして現在のIT社会。歴史というのは、絶えず絶えず大きな激変が勃発し、そのたびに人のライフスタイルが変わっています。世代間のギャップというのは、こういう歴史の激変から起こってくるものと思います。日常的に暮らしてきた生活様式が違うからこそ世代間というのは、ものの考え方に食い違いが生じてくるのでしょう。また地域の風土や生活文化によってもまるっきり変わってくるでしょう。
「土徳」というのは、地域のさまざまに変化する要因の中で形成され育まれ、人に影響を与え続けているのでしょう。今、日本全国一層コンビニ化が起こっています。どこへ行っても同じような建物や人。一体日本はどうなるのでしょう。
文化というのは、もっともっと地域の独自性、特異性をもっていいものと思います。山形なら山形、名古屋なら名古屋らしい、その地域でしかできない映画や小説があってもいいと思います。ドキュメンタリーにしろドラマにしろそういった作品に挑んでほしいと思います。

といった内容の話をすると、意外にもみんな黙って聞いていた。上映中よりも静かに聞いてくれた。さらに驚いたことに質問が、5人もあった。考えてみたら私が、もし若くして結婚していたら、彼らは私の娘や息子の年齢である。目をらんらんと輝かせて質問する生徒を見て少し安心した。

帰りに受講した生徒とエレベーターでいっしょになった。生徒がいった。
「先生、僕は、映画の中であのお祖父さんが、亡くなった時の話に涙が出てしまいました。」



 

可部地区・安芸門徒の伝統産業ヤママユ

ヤママユ同好会の笠野さんがいった。

「可部ではね、江戸時代中頃に広島藩が天蚕を奨励しようとしたんですけど、天蚕は殺生になるから、やらんゆうて拒否したんだそうです。ヤママユはね繭の殻を山から拾って自然のままでつむぐ繭だから、生命を大事にする安芸門徒じゃからゆうてね」



広島市の北部・可部地区の山繭織りは、江戸時代初期に始まったといわれる。採取、糸紡ぎ、染色、機織り問屋など多くの職人らに支えられ、最盛期の1910年ころには「可部紬」の名で、近隣町村も含め約300人の行商人が全国へ販売していた。しかし昭和になり綿や麻など安価な糸が出回ると次第に衰退。自然環境も変わり、ヤママユガも減っていった。「山繭を地域に呼び戻しどこでも見られる町にしよう」可部町商工会が活気の薄れた地域の活性化に、復活運動を呼びかけた。地元から約10人が集まり、1999年に同好会を旗揚げした。(2004年1月4日中国新聞)

●2004年8月26日 ヤママユ同好会を訪ねる  広島市安佐北区三入
知り合いの紹介で、ヤママユのことを知り、同好会を訪ねてみた。私の住む安佐南区西原からだとバスで太田川流域を北上し約30分。安佐北区三入。私が青年期の頃はこの辺はまだ広島市ではなく「安佐郡可部町」と言われていた。
ヤママユ同好会の活動拠点である三入公民館を訪ねると笠野恵子さんら3名の同好会員が、快く迎え入れてくれた。

これは 100年前のヤママユの生糸と100年前のマユ。
昔の方が卵大きいんですって。
木の栄養状態が違うじゃないかゆうて。
商売で残るじゃないですか。そういう形で置いてあったみたいです。孵らないのは、マユを作るのに尽き果てちゃって、中で死んだんじゃないだろうかと。



これは 100年前のマユと生糸











そしてこれが、生糸の商売用の登録商標です。
昔、可部の旧国道の上市というところに問屋さんがあったんですけどね。オリメですね。ここらは一番の昔の商業中心地でしたから何軒か固まってるわけですね。そこに今でも100年前の家に住んでらっしゃるわけですけど、蔵が三つか四ついまだにあります。あがるとミシミシゆうような蔵なんですけどね、そっから引っ張りだしてきてもらったんです。

可部というのは、集散地であって、問屋であって、工場もあって、一大産地。紬もして全国へ売って歩きよった。それから染物工場もありますしね。
明治時代に広島が軍都になった。それで全国から来て軍隊さんが帰る時にみやげでもって帰るいうこともあったみたいです。それで広島市内にヤママユの出張所があった。全国から軍隊さんが来て、広島の名産として買って帰った。だから広島にもいいものが、たくさんでるからこれは商売になるというんで、可部の人は広島へ出張所、だから元は、使ってみたら使い心地がよかったとかゆんで、これは売れるじゃないかとゆうのがあったんじゃないんですかね。その時は可部の各問屋が力を合わして一つの出張所みたいなん作って共同でやったんじゃないんですかね。

       ヤママユガ(オス)                         ヤママユガ(メス)

 


 


●2004年9月4日 ヤママユ同好会・生糸紬講習会  広島市安佐北区三入

ヤママユ同好会は、現在会員は約50人。安佐南区の山林を歩きかろうじて生きのびていた幼虫を捕獲し、ネットを張った庭木などで育て、防護策や育て方、エサなどの研究を重ね、昨年4月には孵化した幼虫が二千匹以上に増えたそうだ。マユ糸でマフラーを作ったり染色に挑戦したり、子供たちへの体験学習をしたりさまざまな取り組みに励んでいる。三入公民館の生糸つむぎ講習会を訪ねた。




マユを弱火で約10分ほど煮る。
沸騰して3分したら重曹を入れる。
マユを早く柔らかくするためである。






柔らかくなったら火を止め酢酸を入れ10分置いておく。
酢酸は溶解したマユの色を元にもどすために入れる。







柔らかくなったマユを引っ張ると美しい繊維が現れた!


















糸によっていく








巻き取るのはペットボトル





               
これほど美しく真っ青なマユが自然界に生息し、戦前の広島で繊維をつむぎ織物として作られ、それを担ってきたのが安芸門徒であったことに驚きを覚えた。
これは採取、糸紡ぎ、染色、機織りまでの全工程を記録した映像作品ができないものだろうかと思案しながら三入を後にした。